入角哲学ノート

哲学者・入角晃太郎の仕事をたどる非公式ノート

用語集

入角哲学 用語解説

公刊論文4本から21の用語を拾い、出典つきで解説します。永井均・入不二基義に由来する用語も、入角哲学の文脈で理解できるように収録しました。各項目にはリンク用のアンカー(¶)があります。定義文は管理人による要約です。

Ⅰ. 「言語の超越論的条件としての独我論表明」(2023)より

独我論的事実 どくがろんてきじじつ

「現実に痛みを感じられるのは私しかいない」「ここが夢なら、見ているのは私だ」といった種類の事実。永井均はこれを「私」の主体用法が成立する根拠と見なしたが、入角はその位置づけを反転させる。すなわち、独我論的事実を語ること自体が言語成立の超越論的条件なのであって、それを語らざるをえないことは、独我論が世界の事実として正しいことの証拠にはならない。「あれほど端的な事実であると思われた独我論的事実も、実はそれを語ることが言語に参入するための超越論的条件でしかない」。

出典:「言語の超越論的条件としての独我論表明」(2023)

言語の模倣説 げんごのもほうせつ

入角の言語観の定式化。「他人によって独我論的事実が語られるとき、それが自分の独我論的独白の模倣であると断定せざるをえないような構造を言語は持っている」。タルドの模倣論(言語は独白から対話へ発展した)を継承しつつ、言語の起源において実際に模倣が行われたという歴史的主張はしない点でタルドと袂を分かつ。ここでの模倣は、言語に必要不可欠な構造としての模倣である。

出典:同上。関連:独我論の座をめぐる闘争鏡の前の独り言

鏡の前の独り言 かがみのまえのひとりごと

言語の原初的イメージ。私が鏡の前で「りんごは赤い」と呟くと、鏡の中の私も間髪入れずに復唱する。三人称で記述できる内容にズレはないが、「私は京都に住んでいる」と言うとき、実物の私と鏡の中の私は同じ文字列で別のことを表現している。この「ズレが生じうること」こそが、独り言が「共通言語で会話するふたり」になるための条件であり、そのズレの極点に「私」の主体用法がある。

出典:同上

独我論の座をめぐる闘争 どくがろんのざをめぐるとうそう

「ここが夢なら、見ているのは君ではなく僕だ」という、夢の所有権の奪い合いに象徴される言い争い。どこまでも調停されえないこのズレが生じ続けることこそ、「鏡の前の独り言」が公共言語として成立するための条件である。重要なのは、これが恣意的な文法規則ではなく言語成立の条件だという点で、だからこそ私たちはこの闘争から降りることができない。

出典:同上。関連:降りることのできない芝居

主体用法/客体用法 しゅたいようほう/きゃくたいようほう

ウィトゲンシュタイン『青色本』に由来する「私」の二用法。「私の腕は折れている」のような客体用法には誤りの可能性が用意されているが、「私は歯が痛い」のような主体用法にはそれがない。ウィトゲンシュタインはこの違いを文法的問題と診断したが、入角によれば、主体用法の破りようのなさは恣意的ルールでは説明できず、より根幹にある言語の超越論性に由来する。

出典:同上ほか(2024クオリア論文でも使用)

双子だけに通じる言語/〈本人〉 ふたごだけにつうじるげんご/ほんにん

入角の思考実験。瓜二つの双子が「君は僕を真似している」とまったく同時に同じ台詞で言い争う。彼らは自分を「本人」、相手を「模倣者」と呼ぶが、模倣が完璧であるため、第三者には〈本人〉が何を指すのかすら理解できない。この〈本人〉こそ、永井の言う〈私〉の語源=原形ではないかと入角は考える。模倣は完璧になされるほど模倣とは言えなくなる「自己破壊的な概念」であり、それでも模倣を言い立て続けるこの構造こそが言語なのである。

出典:同上

言語もどき げんごもどき

独我論の座をめぐる言い争いを欠いた語りのこと。双子たちが「私たちは同期している」と口を揃えるなら、それは「ここが夢ならば、僕たちは同じ夢を見ている」と言うに等しく、いまだ言語ならざる言語=鏡の前の独白にとどまる。言語であるためには、「ここには模倣関係があり、自分こそが模倣された側だ」と主張し合っていなければならない。

出典:同上

降りることのできない芝居 おりることのできないしばい

〈私〉の奪い合いへの参加こそがその言語を話していることの条件であるため、私はこの「芝居」から降りられない、という事態。逆に「今喋っている人物は現象意識を持たない。あなたの痛みだけが本当の痛みだ」とへりくだる発言(=闘争からの降板)は、形而上学的に誤りだからではなく、言語の超越論的条件に反しているがゆえに異様に響く。大森荘蔵の「人間であることを訴えるロボット」のテキストを素材に論じられる。

出典:同上第3節

Ⅱ. 「クオリアの言及不可能性について」(2024)より

言語のマナー説 げんごのまなーせつ

入角自身の立つ言語観。言語とは専らコミュニケーションのためのものであり、「痛い」は膝を擦り剥いたなどのふさわしい場面で適切に発せられるべきものであって、他ならぬこの私の感覚の報告ではない、とする立場。この立場では、私は外的状況に離反して私固有の感覚を語る資格を決して持てない(今日からトマトが緑に見えても、それを「緑」と呼ぶことは許されない)。日常言語から乖離した奇矯な言語観であることは自認の上で、「私たちを形而上学的なまどろみから目覚めさせてくれる」効用が主張される。

出典:「クオリアの言及不可能性について」(2024)

言語習得の二段階説 げんごしゅうとくのにだんかいせつ

言語習得は、①「マナーとしての言語」の段階(実際に痛かろうがなかろうが、ふさわしい場面で「痛い」と言う「装い」=演技の段階)と、②その言語を「他ならぬこの私の言語」として受け入れ、自分の感覚を指すものとして扱う段階、の少なくとも二段階でなされる、という理論的整理。実際の発達記述ではなく、永井の独在論と入角自身のマナー説を位置づけるための「見取り図」とされる。独在論は第二段階に、マナー説的言語使用は第一段階に対応する。

出典:同上

ヘレンの洞察 へれんのどうさつ

ヘレン・ケラーが掌の水とともに water の指文字の意味を悟った、あの有名な場面の入角的読み替え。通説(今井むつみ・秋田喜美)の言う「すべてのものに名前がある」という気づきではなく、「言語は単なるマナーではなく、自分だけの感覚を指すものとして使用してよい」という気づきだったとされる。マナーから「自分自身に何かを伝える手段」への移行の瞬間。ただしマナー説の立場からは、この洞察は最初から起こりえないか、あったとしても錯覚だったとされる。

出典:同上第2節

サリバン先生の献身 さりばんせんせいのけんしん

ヘレンの洞察を可能にした大人の働きかけ。ひんやりとしたたる感覚はそもそも共指示しようがないのに、サリバン先生は「あなたの今感じているこの冷たいしたたりこそが water なのだ」と根気強く教えた。それは、自らの独我論を放棄し、いわば自分からヘレンの夢の中の登場人物へと格下がりして「ここはあなたの夢の中なのだ」と告げる不条理な献身である。言語に独我論的なルールがあるとすれば、サリバン先生はそのルールを自ら破ることでそれを教えたことになる。

出典:同上第2節

私を待ち構えていた言語 わたしをまちかまえていたげんご

「この剣はあなたにしか引き抜けない」という節題で語られる背理。ヘレンの洞察が正しいなら、他ならぬこの私の感覚を指すための「痛い」という語が、私がその感覚の輪郭を得るより前から、他者由来の公共言語の中に用意されていたことになる。言語は「教義との出会いについての教義」を含む世界宗教のテクストと同じ構造を持つ、と田島正樹を引きつつ論じられる。マナー説はこの背理を、洞察の錯覚性を示すものと読む。

出典:同上第4節

クオリアの言及不可能性 くおりあのげんきゅうふかのうせい

「他ならぬこの私のありありとした感覚」(=入角の言う意味でのクオリア)は、日本語のような公共言語では語れていない、というテーゼ。他者とコミュニケーションするための言語で、他ならぬ私のこの痛みを語ることには深刻な矛盾が含まれる。この矛盾の解決は二通り——他者との会話を実は私の一人芝居と見なす(独在論)か、実はこの言語はクオリアを語れていないと認める(マナー説)か。入角は後者を取る。

出典:同上。関連:マイナス内包という神話

Ⅲ. 「双子地球通信」(2024)より

地球語/双子地球語 ちきゅうご/ふたごちきゅうご

パトナムの双子地球論証を検討する際の核心概念。「水」の意味が地球語(H₂Oを指す)と双子地球語(XYZを指す)で異なるとする論証は、それ自身がどちらの言語で書かれているのかを自覚しなければならない。パトナムの誤りは、論証を地球と双子地球をともに見下ろす「透明な第三の言語」で書けるかのように装った点にある——そんな共通語のありえなさを示すことこそ双子地球論の要諦だったはずなのに。入角は各主張に「In 地球語[…]」というオペレーターを明示する書き換えを行い、双子地球からは意味の外在主義も内在主義も導けないことを示す。

出典:「双子地球通信」(2024)

小説を読むように読む/能産性 しょうせつをよむようによむ/のうさんせい

双子地球から届いたテキスト(地球上の対象と因果関係を一切持たない、まっさらなテキスト)でも、私たちには読解可能である、という主張。小説の中の「東京」は現実の東京と同一ではないのに十分に了解できる——保坂和志の「能産性」概念がこの読みを支える。ただしこの読解が成り立つには、「水」以外の大方の語の意味が両惑星で概ね一致していることが要請される。この要請こそ、「水」の意味の差異を語るパトナムの前提(1a)に最初から含まれていた、外在主義と真逆の主張である。

出典:同上第2節

Ⅳ. 「マイナス内包という神話」(2025)より

権利問題/事実問題 けんりもんだい/じじつもんだい

カント由来の区別で、マイナス内包批判の主武器。永井均は「大人になればクオリア逆転を医師に訴える権利がある」と述べただけで、言語報告と独立にクオリア逆転が事実として起こりうるとまでは言っていない。入不二はこの権利を事実と取り違えてマイナス内包を導出した——「二十歳以上は飲酒できる」と聞いて「アルコールに強い子どももいるかもしれない」と言い出すようなものだ、と入角は評する。

出典:「マイナス内包という神話」(2025)

言表内容/様態 げんぴょうないよう/ようたい

言語の二側面の区別。言表内容とは、どの口にとっても繰り返すことができる(=鸚鵡返し可能な)パターンのことで、あらゆる推論はこれによってなされる。様態とは声色・抑揚・発話する物理的身体など言語の媒体的側面で、どこまでを様態とするかは恣意的であり、世界全体へと延べ広がっているとも言える。言表内容に様態を書き込むことはできない(水と油)。「誰が言ったか」は本来言語に属さず、それゆえ推論は無主体的であり、言語はいかなる主体にも隷属しない。

出典:同上第1節。関連:鸚鵡返し可能性

鸚鵡返し可能性 おうむがえしかのうせい

言表内容の本質規定。言語が言語であるのは、それがどの口にも繰り返し可能なパターンを含むからであり、その意味内容は「誰が言ったか」に依存しない。デリダの「反覆可能性/引用可能性」の入角的展開。「鸚鵡返し可能なこの言語で、鸚鵡返し不可能なはずの事柄(他ならぬこの私の感覚)をじかに語ってしまう」ことが、独在論やマイナス内包に共通する錯誤として摘発される。

出典:同上(デリダの引用可能性は2024クオリア論文でも参照)

誠実性原則 せいじつせいげんそく

言語の存立条件としての超越論的原則。言語が成立するためには、「思ったことをそのまま口にする」ということが権利上可能でなければならない——私の思いと私の発話が同型でありうることが「約束の上では」成り立っていなければ、嘘をつくことさえできない。ただしこれは経験的に成り立つ規則ではない。感覚の表明における「一人称権威」も、この超越論的誠実性原則からの借り物にすぎない、とされる。

出典:同上第3節

超越論的冗談化可能性 ちょうえつろんてきじょうだんかかのうせい

永井均の「超越論的冗談」(いかなる真面目な言語行為にも「なーんちゃって」が後続しうるのでなければならない)を、誠実性原則の裏面として位置づけたもの。誠実性が経験的事実ではなく超越論的要請にすぎないからこそ、個々の発話はいずれも冗談化可能でなければならない。「誠実な発言」という事実が世界の側に転がっているわけではないのだ。

出典:同上第3節(永井『〈魂〉に対する態度』由来)

マイナス内包という神話 まいなすないほうというしんわ

入不二基義のマイナス内包(概念による指定も輪郭も持たないが「何らかの感じはあったはず」という仕方でのみ想定されるクオリア)に対する入角の批判的規定。マイナス内包は、クオリア逆転を訴える権利を逆転という事実と取り違えたところに生まれた矛盾した概念であり、「背理の沼」にしか咲かない「幻の花」。せいぜい「言語だけは感覚そのものを指せる」という主張へのしっぺ返しとして使い捨てる方便にとどめるべきだ、とされる。なお入不二本人が2025年7月、この批判にnoteで応答している。

出典:同上。応答:入不二基義「入角晃太郎『マイナス内包という神話』への応答」

Ⅴ. 永井均・入不二基義から継承された用語(入角哲学を読むための前提)

第〇次内包/第一次内包/マイナス内包 だいぜろじないほう/だいいちじないほう/まいなすないほう

永井均がチャーマーズの二次元意味論(一次内包/二次内包)に付け足した概念系列と、入不二基義によるさらなる増設。第一次内包は「梅干しを食べて酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるもの」=日常文脈と結びついた内包。第〇次内包は「第一の逆襲」を経て外的状況から自立した「感覚そのもの」。マイナス内包は入不二がそこからさらに「概念」の固定をも取り払った「何でもあり」の無尽蔵なクオリア。入角は、第〇次内包の「自立」を事実ではなく言語ゲーム上の権利として読み直し、マイナス内包を神話として退ける。

前提文献:永井『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』、入不二『現実性の問題』ほか。入角による検討は2025年論文

独在論/〈私〉 どくざいろん/わたし

永井均の哲学。「現在の世界には現実に一人だけ他人たちとはまったく違うあり方をしている人間が存在している」——その人間を山括弧つきで〈私〉と表記する。認識論的独我論ではなく存在論的独我論(独在論)。入角は〈私〉の議論の「反駁しようのなさ」の正体を、読者が読解の時点で〈私〉の座の奪い合いに巻き込まれてしまう言語構造に見出し、独在論を「ヘレンの洞察」以後にありうる言語的身振りのひとつとして相対化する。ただし批判は「『私』という語の成り立ちに独在性が必要だとする一点のみ」であり、世界の存在構造としての独在論には中立を保つ。

前提文献:永井『世界の独在論的存在構造』ほか。入角による検討は202320242025の各論文

※ 用語の切り出しと定義文は管理人によるものです。厳密な定義・文脈は各論文をご参照ください。