入角哲学ノート

哲学者・入角晃太郎の仕事をたどる非公式ノート

論文解説

「クオリアの言及不可能性について」(2024)を読む

ヘレン・ケラーの water の場面を読み替え、「言語のマナー説」を打ち立てる。入角哲学のもっとも物語的な中核論文です。

書誌情報 入角晃太郎「クオリアの言及不可能性について」『人間存在論』第30号、71–84頁、2024年7月。
原論文PDF(京都大学 KURENAI)
一言でいうと

他者とコミュニケーションするためのこの公共言語で、「他ならぬこの私のありありとした感覚」(クオリア)を語ることには深刻な矛盾がある。矛盾の解決は二つ——会話をすべて私の一人芝居と見なす独在論か、「実はこの言語はクオリアを語れていない」と認めるマナー説か。本論文は後者を選び、言語習得の場面からそれを示す。

出発点 — この言語は他者由来である

私は今、自由に日本語を話している——と言いたくなりますが、その「自発的」な文言すら、他者によって繰り返し言わされてきたものです。転んで膝を擦り剥けば「痛い」と言わされ、梅干しを食べて「痛い」と言えば「それは酸っぱいんだよ」と訂正される。つまり言語は原初的にはマナーとして学ばれざるをえない。「痛い」とは、実際に痛かろうが痛くなかろうが、ふさわしい場面できちんと発せられるべきもの——それがマナーとしての「痛い」のすべてです。

ここから言語習得の二段階説が立てられます。①マナーとしての言語(「装い」「演技」の段階——永井均がデリダの引用可能性を敷衍して指摘した、「夢中」で痛いと言えるようになる以前の段階)と、②その言語を「他ならぬこの私の言語」として受け入れ、自分の感覚を指すものとして扱う段階。これは実際の発達記述ではなく、独在論とマナー説を位置づけるための理論的な見取り図だと断られています。

ヘレンの洞察とサリバン先生の献身

では①から②への移行はどう起こるのか。ここで参照されるのが、ヘレン・ケラーが掌に冷たい水を受けながら water の指文字の意味を悟った有名な場面です。今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』はこれを「すべてのものには名前がある」という洞察と読みますが、入角さんは異を唱えます。ヘレンが悟ったのは——

言語は単なるマナーなのではなく、自分だけの感覚を指すものとして使用してよい

「クオリアの言及不可能性について」より(ヘレンの洞察の内容)

——ということだった。それまで手渡された対象に指文字を返すだけの「表層的なコミュニケーション」(ヘレン自身の回想では「猿まね」)でしかなかった言語が、他ならぬこの私が感じている冷たいしたたりの「これ」の名になる瞬間です。

そしてこの洞察は独力では訪れません。ひんやりとしたたる感覚は、そもそも共指示のしようがないからです。サリバン先生はそれでも「あなたの今感じているこの冷たいしたたりこそが water なのだ」と教えようとした。それは、自らの独我論を放棄するのはもちろんのこと、いわば自分からヘレンの夢の中の登場人物の役を買って出て、「ここはあなたの夢の中なのだ」と親切にも告げる行為——サリバン先生の不条理な献身です。言語に独我論的なルールがあるとすれば、先生はそのルールを自ら破ることでヘレンにそれを教えたことになります。

独在論の位置づけ — 洞察者たちの連帯

この枠組みに永井均の独在論が位置づけられます。独在論者は「私の洞察だけが本当の洞察であり、他者の洞察は実は洞察ではない」と考える者、すなわち「ヘレンの洞察」以後にありうる言語的身振りのひとつです。独在論者にとって他者との会話は、夢の中の会話のように、実は私の私的言語による一人芝居となる——そしてその一人芝居性が「サリバン先生の献身の名残り」だと指摘されるくだりは、本論文でもっとも印象的な箇所のひとつでしょう。

同時に、独在論への皮肉も鋭くなります。「他ならぬこの私」という、本来並び立つ他者を寄せ付けないはずの語を用いて、洞察者たちは結果的に強く連帯してしまう。「本当はあなたも自分のことを特別だと思うんでしょう」と仲間を募る身振り——マナー説を推す動機のひとつは、この身振りへの「ある種の拒否感」だと明かされます。

マナー説の帰結 — 私を待ち構えていた言語

マナー説は、二段階説の第二段階そのものを認めません。ヘレンの洞察は最初から起こりえないか、あったとしても錯覚だった、とされるのです。決め手は「私を待ち構えていた言語」の背理です——他ならぬこの私の感覚を語るための「痛い」という語が、私のこの〈痛い〉という感覚がその輪郭を得るより前から、他者由来の公共言語に用意されていたことになるのはおかしい。もしヘレンの洞察が正しいなら、「痛い」という言葉は、この私の口から発せられるのをずっと待ち構えていた、選ばれし者の剣のようなものになってしまう。

かくして結論——クオリアの言及不可能性。「私は言葉を自由に語る」と語るより「私はこの言語を押し付けられた」と語るほうが実情に即している。もし自分の言語を自由闊達に使えていると思えるなら、それは「今あなたに見えているものが赤色だよ」と教えてくれた「不条理なまでに慈悲深い大人」のおかげにほかならない。その大人が教えたことは「嘘」だったが、その「嘘」によって「主体としての私」ははじめて誕生しえたのです。

読みどころ

  • 各節の副題が秀逸です。「私たちは同じ夢を見ている」(マナーとしての言語)→「私はあなたの夢の中の登場人物にすぎない」(サリバン先生の言語)→「この夢を見ているのは他ならぬこの私だ」(独在論者の言語)→「この剣はあなたにしか引き抜けない」(私を待ち構えていた言語)。夢のモチーフが2023年論文の「夢の所有権」から連続していることがわかります。
  • ウィトゲンシュタインの私的言語論(感覚日記「E」)の扱いも独特で、「正しさの基準がない」という点では造語「E」も日本語の「痛い」も同じだ、として私的言語批判を平然と受け流します。感覚日記が「マイナス内包に向かっている」とする脚注15は、翌年のマイナス内包論文の予告編になっています。
  • 「言語のレベルで完全な自己中心化を取り戻そうとする運動」という中島義道の独我論規定への同意(脚注16)は、入角哲学の位置を測るうえで重要です。

主な対話相手:永井均/ウィトゲンシュタイン『哲学探究』/デリダ/今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』/上野修/中島義道/野矢茂樹/田島正樹 → 詳しくは対話の見取り図