入角哲学ノート

哲学者・入角晃太郎の仕事をたどる非公式ノート

論文解説

「言語の超越論的条件としての独我論表明」(2023)を読む

すべての出発点。ウィトゲンシュタインとも永井均とも異なる「第三の道」がここで宣言されます。

書誌情報 入角晃太郎「言語の超越論的条件としての独我論表明」『人間存在論』第29号、65–77頁、2023年7月。
原論文PDF(京都大学 KURENAI)
一言でいうと

「私は歯が痛い」が誤りえないのは、文法がそう設計されているから(ウィトゲンシュタイン)でも、現実に痛いのは私だけだという事実があるから(永井均)でもない。「現実に痛いのは私だけだ」という独我論的事実を語ること自体が、言語が成立するための超越論的条件だからである。

問題 — 誤りえなさの出どころ

私は自分の腕を他人の腕と誤認することはあっても、他人の歯の痛みを私の痛みと思い違えることはできません。この誤りえなさをどう説明するか。ウィトゲンシュタインは「私」という語の文法的問題(主体用法には誤りの可能性が用意されていない)に帰し、永井均は「現実に痛みを感じられるのは私しかいない」という独我論的事実に成立根拠を求めて反論しました。本論文はその両方に不満を表明するところから始まります。

  • 文法説への不満:主体用法が単なる恣意的ルールなら、破ることが可能なはずだ。しかし私が間違えて他人の歯痛に呻くことはない。この「破りようのなさ」は恣意的ルールでは説明できない。
  • 独我論説への不満:永井の言う「独我論的事実」は、既に成立した言語の中でのみ理解可能なものであり、主体用法の成立根拠には据えられない。

鏡の前の独り言と言語の模倣説

入角さんはタルドの「言語は、まず独白だった」を引き継ぎ、言語の原初的イメージを鏡の前の独り言に置きます。私が「りんごは赤い」と呟けば、鏡の中の私も間髪入れずに復唱する。ふたりが「共通言語で会話するふたり」であるためには、両者の言うことにズレが生じうるのでなければならない——そしてそのズレを生むのが「私」という指標詞です。「私は京都に住んでいる」という同じ文字列が、実物の私と鏡の中の私とで別のことを表現してしまう。

ここから本論文の言語観、言語の模倣説が定式化されます。

他人によって独我論的事実が語られるとき、それが自分の独我論的独白の模倣であると断定せざるをえないような構造を言語は持っている

「言語の超越論的条件としての独我論表明」より(定式化の要約)

ポイントは、これが言語の起源についての歴史的主張ではないことです。実際に模倣が行われたかどうかは問題ではない。言語が言語であるために必要不可欠な構造としての模倣が問題なのです。

この構造は「夢の所有権」の例で鮮やかに示されます。ここが夢かもしれないと私は疑えますが、これが夢だとしたら、それは私の夢です。ところがその場にいる他人もまた「夢を見ているのは自分だ」と主張して譲らない。この、決して調停されない夢の所有権の奪い合い——独我論の座をめぐる闘争——が絶えず行われていることこそ、言語の成立条件だとされます。だからこそ言語は必ず「語りえぬもの」を持たねばならず、言語とは「共有不可能なものの共有」の別名にすぎないのです。

双子だけに通じる言語 — 〈私〉の語源としての〈本人〉

本論文の白眉が双子の思考実験です。瓜二つの双子が「君は僕を真似している」と、まったく同時に、まったく同じ台詞で言い争っている。彼らは自分を「本人」、相手を「模倣者」と呼ぶが、模倣が完璧すぎるため、第三者には〈本人〉が何を指すのかすら理解できない。模倣は完璧に遂行されるほど「模倣する者/される者」の区別を失効させる、自己破壊的な概念だからです。

それでも双子は「自分こそが〈本人〉だ」と主張し続ける。この〈本人〉こそ、永井の〈私〉の語源=原形ではないか、と入角さんは言います。そして重要なのは、双子が「私たちは同期している」と語り出したら、それはもう言語ではなく言語もどきだ、という点です。形而上学的に模倣なのか同期なのかはもはや語りえない。それでも模倣を言い立てること——その構造こそが言語なのです。

降りることのできない芝居 — 独在論への反撃

最終節では、大森荘蔵の「自分は断じてでくのぼうではないと訴えるロボット」のテキストを補助線に、降りることのできない芝居という論点が出てきます。〈私〉の奪い合いへの参加こそが言語を話していることの条件である以上、私はこの芝居から降りられない。逆に言えば、「私は独我論的事実を語らざるをえない」ということは、独我論が正しいことの証拠にはならないのです。

ここで入角さんは、永井自身のテキストに決定的な一節を見つけます——「このゲームにかんしては、その成員のだれもがその同じ意味で独我論者であらざるをえない。それこそがこのゲームの構成的な規則だからである」。独我論表明が言語の構成的規則であることを永井自身が認めているなら、永井が独我論に固執する身振りそのものが、超越論性の議論の側から見れば「規則の実演」にすぎない。本論文はこうして自らを「独在論の新たなる敵」として位置づけます。永井が超越論性を「主体」に帰する議論と戦ってきたのに対し、入角さんは超越論性を「言語」に帰する。「言語の手前に主体があり、主体に言語が従属している」という従来の構図そのものへの懐疑がここにあります。

読みどころ

  • 永井『世界の独在論的存在構造』の引用文中の「永井均」を「入角晃太郎」に書き換えて論じ、脚注で「読者は自分自身のこととして読み替えることによって本稿を理解したはずである」と畳みかける自己言及的な仕掛け。論文の形式そのものが「独我論の座をめぐる闘争」の実演になっています。
  • 独在論者への宿題として最後に置かれた問い——「独在論者は、他人が『私は夢の中の登場人物にすぎない』と語ること(臣下の振る舞い)を、なぜ喜んで受け入れないのか」。この問いは2025年のマイナス内包論文の脚注8(「私のクオリア逆転の訴えだけは事実だ、と主張する権利がこの口に与えられているにすぎない」)まで一貫しています。

主な対話相手:ウィトゲンシュタイン『青色本』/永井均『世界の独在論的存在構造』ほか/タルド『模倣の法則』/デリダ『声と現象』『有限責任会社』/大森荘蔵『流れとよどみ』 → 詳しくは対話の見取り図